Archive for 3月, 2017
またもや祭り! ~’90
1990年8月2~6日 〈Casares, Spain〉
約束通り、カサレスへ戻ってきた。お祭りに間に合った。
先回のときに村の写真屋さんが撮ってくれたディエゴと私のツーショットが、バルに額縁入りで飾られていた。感激!
「ディエゴ、また会えたね!お洋服も帽子も新しいね!」
「祭りだからね!全部、新しくしたよ!」
どこからどうやって運んだのか、広場の小さなスペースにメリーゴーランドや小さな観覧車までできちゃって、スペインの祭りはすごいなぁ。
女子たちもドレスアップの準備。
お巡りさんのホセの息子。かわいいなぁ。とーちゃんはあんななのに。
頼みもしないのにセビジャーナスを教えてくれる。結構難しい。
バンドが来ていて生演奏。それに合わせて、広場では皆が踊っている。
Kも肉屋のオバチャンに誘われて、広場へ。踊るというより、オバチャンに振り回されている感じ。
こんなときのために、たしなみとして社交ダンスは習っておくべき?
夜中、2時。広場はまだまだ大騒音、大熱狂。だけど、「そろそろ寝ようかな」と言うと・・・。
「なんだって?!祭りなのに寝るのかっ!」
「日本人は、目が細いから、きっと眠くなっちゃうんだ!」
なんて皆に非難され、見かねたディエゴが一緒に来なさいとカフェのテラスへ。
そこで、濃いエスプレッソとブランデーを飲まされて「どうだ?これで目が醒めただろ?」って、ただ酔っ払っただけなんですけど。
いやはや怒涛の3日間であった。すさまじいバイタリティ。
たまたま立ち寄った日本人旅行者、「ガイドブックに、『山間の白い小さな静かな村』って書いてあったのでわざわざ来てみたのに、なんでこんなことになってるんですかっ!?」と、ちょっと困惑気味。
祭りが終わって翌日。
気の抜けたようになっている皆と別れを告げて、ハビエールがエステポナまで送ってくれた。
アディオス!アスタ・ラ・ビスタ!また会う日まで!
*****
追記(2017年) その3年後、ハビエールから「お祭りがあるから来て。ディエゴも会いたがってる」という内容の手紙が来て、またもやカサレスを訪れた。
それから、10年前にもスペインに行った時、ちょっとだけサプライズで立ち寄った。
ディエゴは亡くなっていて、でもバルにはあのときのツーショットがいまだに飾られていた。
ハビエールはすっかりロマンスグレーになって、村の若者は皆、町へ出て行ってしまって、残っているのは年寄りばかりだと嘆いていた。
旅行者も、ツアーバスで来て、上から村を眺めて展望レストランで食事をして、村まで下りてくることなく、ましてや滞在なんてせずに、そのまま帰ってしまうのだそうだ。
でもハビエール、相変わらずギターの腕前は上級。タパスを作りながら、手が空くとギターを弾いてくれた。
現実は厳しいのかもしれないけれど、いつまでも美しい綺麗な村であって欲しいと願っている。
リゾート下手 ~’90
1990年7月26日~8月1日 〈Maro, Spain〉
ポルトガルから再びセビージャを経由してスペインのマーロへ。
この季節、アンダルシアはスペインのフライパンという異名を持つほど暑い。
日本の「冷やし中華、始めました」と同様、「エアコン、効いてます」の張り紙がバルに掲げられている。
マーロは地中海沿いの小さなリゾート地。海が目の前にあるおかげで、比較的涼しい。
ドイツからのリゾート客が多い。ドイツって海がないんだっけ?
リムと再会した。山とは違って、リゾート客の車の管理なんかをして小銭を稼いでいるらしい。日焼けして真っ黒。
ビーチでは、女の子は皆トップレス。強い陽光の下、そんなあられもない姿でビーチバレーなんかしてるけど、健康的過ぎていやらしくもなんともない。むしろワンピースの水着なんかを着ている私の方が異様な感じだ。
スペイン人のオジサンたちが、ビーチで大きなパエジャを作っている。ワインを飲んで大笑いしながら。
昼間はビーチでゴロゴロして、夜はドレスアップしてレストランで食事、その後はプールバーやディスコなどで明け方まで飲んで騒いで。
皆それぞれ楽しそう。楽しむのが上手。これがリゾートっていうやつね。
リゾート地のため安宿などなく、ちょっと贅沢してメゾネットタイプのアパートを借りた。キッチンとバルコニー付き。4000ペセタ。
私たちも皆をまねて、泳いだり、料理をしたり、バルコニーで海を見ながら夕涼みをしたり、夜はリムやドイツ人たちと飲みに行ったり。
のんびりと時間が過ぎていく。
だけど、どうも身の置き場がないというか、何もしないというのができないというか、時間を持て余すというか・・・。
リゾート慣れしてないってことかな。だから日本人は旅に出ても、あっちもこっちもと忙しく観光しちゃうのかも?
さてと。リム、私たちはそろそろ行くね。元気でね。
銀行へ両替に行くと、こんなところには日本人なんて来ないせいか、たったひとりの銀行員(短パンにポロシャツにビーサンといういでたち!)は、日本円のレートなんてわかんないな、と数年前の書類を奥の方から探し出してきて、それをもとに電卓を叩いて現金をくれた。
細かいコインがないな、お釣りある?と訊かれて、ないと答えると、じゃあ、いいや、とまけてくれた、とは言ってもそもそもレートがデタラメなので、どうなんだろ?
時刻はちょうど2時。
銀行員は、私たちと一緒に銀行を出て、鍵を閉めて本日の業務終了、アディオスと言ってお昼に行ってしまった。
スペインの銀行員って、なんか楽チンそうだなぁ。
大人の国、おとぎの国 ~’90
1990年7月12~24日 〈Portugal〉
〈ラーゴス~サグレス~リスボン~エヴォラ~エルヴァス、ポルトガルの南半分を周る〉
スペインのアヤモンテから、たった10分、川を渡ってポルトガルへ。船賃、70ペセタ。
一応パスポートは出すけれど、国境越えというよりも、渡し船に乗っている人たちは隣町へ買い物へ行くくらいの感覚で行き来しているよう。
それでも、ポルトガルはスペインとはずいぶん違う。
ポルトガルの人々は、なんだか穏やかで落ち着いている感じ。
物価はスペインより1~2割、安い。
リゾート客もいっぱい。
そしてうれしいのは食べ物。魚料理がたくさん。とりわけイワシの炭焼き!
ラーゴスでのレストラン。
昼定食に、イワシの炭焼き、な、な、なんと一人前8尾!それに山盛りサラダと山盛りポテト。
美味しくて美味しくて、全部平らげた。飢えていたのかも?
それから、ヴィニョヴェルデという微発泡の白ワイン。これがまた魚料理に合って、暑さの中、冷えたこのワインがのどごしが良くて、とっても美味しい。
デザートとコーヒー、二人前で〆て1600エスクード。(1ESC=0.9円)
リスボンの街並み。屋根の色がノスタルジック。
細い坂道が多く、そこをアンティークのおもちゃみたいな路面電車がガタゴトと行きかう。
発見のモニュメント。大航海時代、ポルトガルは大きな国だったんだよね。種子島にだって来ちゃったんだもの。
ペンションの入り口。どこも味わいのある古い建物。階段はギシギシ。それがまた素敵。コンチネンタルの朝食付きで、2500~3000ESC。
バイバイ、モロッコ ~’90
1990年7月8日 〈Algeciras, Spain〉
サハラから戻り、ホテルをチェックアウトして、エルフードからバスで鉄道駅のある大きな街、エルラシディアへ。
すでに夕方。ここから夜行列車で一気に振り出しのタンジェまで。
列車は、犠牲祭の影響か超満員。東京のラッシュ並みだ。
座る席などまったくなく、出入り口付近になんとか小さなスペースを確保したけれど、荷物もあって立ったまま身動きが取れない。
荷物にもたれてうつらうつらしたような気もしたが、そのまま10時間。
朝。列車は満員のままタンジェに着いて、やっと解放される。
長かった。辛かった。ほとほと疲れた。疲れ切って口もきけない。
早々にホテルを探してゆっくり休もう。
けれど、荷物を持ってふらふら歩いて行くと、港にスペイン行きのフェリーが停泊しているのが見えた。
ここから2時間でスペインなのだ。
そう思ったら、矢も楯もたまらず、もうひと頑張りしてスペインに渡っちゃえ、という気になった。
もういい、モロッコ、さようなら。
昼過ぎ、モロッコから逃げるようにしてスペイン・アルヘシラスへ到着。
港近くのオスタルにさっさとチェックインして、荷物を置いて、シャワーを浴びる。
着替えてさっぱりして、バルへ。
「セルベッサ、ポルファボール!」(ビール、下さい!)
10秒後には、冷え冷えの生ビールがカウンターに置かれた。
「75ペセタ」
100ペセタコインを出して、お釣りはいらない、と、ジェスチャー。
ビール、一気飲み。ものすごく美味しい!涙が出るほど美味しい!
Kと顔を見合わせて、笑い出してしまった。泣き笑いになった。
ビールがこんなに美味しかったなんて!
こんなに欲しかったものが、こんな風にいとも簡単に手にはいるなんて!
しかもたったの100ペセタ!正確には75ペセタ!
「オトラベス!」(もう一杯!)
モロッコ、ヴォルビリスのローマ遺跡
*****
追記(2017年) 今でも時折、夫とこの時のビールのことを話す。生涯で最も美味しかったビールとして。
モロッコではあまりの異文化によほど緊張し、ショックも受けて、疲れてしまったのだと思う。スペインに戻って、ホっとして気も抜けたのであろう。
けれども、それでモロッコが嫌いになったかと思えばそうでもなく、またマラケシュのあの喧騒の中に行ってみたいと思うのだ。
サハラ ~’90
1990年7月7日 〈Morocco〉
午前3時。ランクルが時間通りに迎えに来た。
まだ真っ暗。昼間の灼熱がウソみたいに肌寒い。
道なき道をガタゴトとひたすら南へ走る。月明りだけが頼り。車のヘッドライトも闇に吸い込まれていく。
約1時間半。お尻が痛い。車はここまで。
サハラは突然始まる。どこまでも、どこまでも、砂、砂、砂。砂の山。砂以外に何もない。怖くなる。
足を踏み入れると、さらさらと砂が崩れていく。
オレンジ色の風紋。静か。さーっと風が砂を動かす音だけしかしない。
どの方向にどれだけ歩いても、どこもかしこも砂ばかり。
どこまで続いているのだろう?
ときどき方角がわからなくなって、ランクルのある場所を確かめる。大丈夫。
日が昇ると、気温は急激に上がってくる。ありがとう、もう充分です。
帰り道、遠くにラクダが見えた。フラミンゴが見れることもあるのだそう。
遊牧民のテント。「ちょっと挨拶していこう」とドライバー。
そばに車を止めると、「お茶でも飲んでいかないか?」って。
こんな風にこんな場所で暮らしている人がいるなんて・・・。
ずっと無口になってしまっていたけれど、さらに言葉を失ってしまった。
いろんな人がいて、私の想像もつかない暮らしがあるのだ。
インシャラー ~’90
1990年7月6日 〈Elford, Morocco〉
ローカルバスに何時間も揺られて、ワルザザードからテネリールを経由してエルフードへ。
バスから見る風景は、ときたまオアシスが見えるけれど、ずっとずっと草木も何もない土漠だ。
それでもたまに、小さな川を頼りにできた集落のようなものがあって、人々が暮らしている。
途中でバスを降りて何もない土漠を歩いて行く人がいたが、いったいどこに向かっているのであろう?見える範囲には何もない。
バス停どころか道だってあるようなないようなところなのに、降りる場所をどうやって知るのであろうか?この暑さの中、ずっと歩いていくのか?
まるで他の惑星にいるような、海の底にいるような、奇妙なな錯覚にとらわれる。
エルフードのホテルのフロントでサハラに行きたいと言うと、「サハラ!?あんなとこ、砂しかないぞ!」と驚かれた。
日の出る国、東の果ての日本から、わざわざ日の沈む国、西の果てのマグレブくんだりまでやってきて、そして砂を見たいだなんて酔狂と思われたのだろうか。
道路はないので、行くとしたらランドクルーザーでしか行けない、車とドライバーひとりをつけて、1万円でどうだ?
この国で1万円は破格だ。もちろん私たちにとっても。
こちらがまずはずっと安く言うのを前提として、交渉しながら互いの妥協点(3000円辺り?)に落ち着くことを念頭に、相手はわざと高値を言ってきたのだと思う。
けれど、長いバス旅でくたくたに疲れていて、暑くて頭も働かない。
時間と気持ちに余裕があれば、じっくり交渉もするのだけれど、もうどうでもよくなってしまった。
日本人は砂を見るために1万円払うという先入観を植え付けて前例を作ってしまうのは、これから来るかもしれない日本人には申し訳なかったけれども。
オーケー、それでいいです。夜明けを見たいので、午前3時出発ということで。
明日の天気はどうですか?と訊くと「インシャラー」(アラーの神さまの御心のままに)との返事。
*****
追記(2017年) 今は砂漠ツアーというものがあって、大型バスに乗って簡単にサハラ観光ができるのだそう。土産物屋やレストランもあるとのこと。
砂がお金になるとはね、と現地の人たちはホクホクかもね?
暑すぎる! ~’90
1990年7月4日 〈Ourzazart, Morocco〉
マラケシュがこんなに暑いのに、サハラなんて行ったら死んじゃうよ、と、皆に言われたけれども出発した。
先延ばしにしてたら、さらに暑くなる。
アトラスを越えて、カスバ街道を通り、まずはワルザザードへ。
気温、45度。初体験。思考停止。
何か祭りのようなもの(犠牲祭の一環なのであろうか?)をやっていたようだったけれど、何も考えられず、動けず。
ホテルのなるべく冷たい壁にもたれてぐったり、じっとしている。
安ホテルにはエアコンなんてもちろんない。
体温計はどうやって使うんだろう?熱が出てもわからないじゃん。
水をやたらに飲む。なのに汗が出ない。汗が出ていることにも気づかぬうちに乾いてしまうのかもしれない。
羊祭り ~’90
1990年6月22日~7月3日 〈Marrakech, Morocco〉
羊祭りが始まるらしい。
祭りといっても、羊をBBQにして陽気に飲めや歌えの大宴会というわけではなく、ホントの名前は「犠牲祭」という年に一度のイスラム教の大きな行事。
羊はその生贄。
それぞれの家が羊を買って行う。何を行うのかはよくわからないけど、宗教的な儀式のようなものなのかな?
郊外の野外市場。ロバや羊やヤギを売っている。
皆が準備に大忙し。
あっちもこっちも羊を運ぶ人たちでいっぱい。
アブデスラムの家にも羊が4頭。彼らに明日はない、と、アブデスラム。
いくら友達になったからといって、イスラム教徒でもない私たちが足を踏み入れるのはここまで。
いったい、どんなことをするのであろうか???
翌日。
ジャマエル・フナはいつもの喧騒はどこへやら、シーンと静まり返っている。広場には誰もいない。
その代わり、生贄になった羊の生首が裏の通りに並び、生臭い血の匂いが漂ってきた。
生贄って、言葉のアヤとかじゃなくて、正真正銘ホントの意味の生贄だったんだ。
あれだけたくさんの羊が一晩のうちに、生贄にされたのかと思うとぞっとしてしまった。
アブデスラムに「見においでよ」と言われていたけれど、行かなくてよかった、見たら卒倒してたかもしれない。
ひやり ~’90
1990年6月22日~7月3日 〈Marrakech, Morocco〉
夜、アブデスラムと新市街まで散歩に出た。
ワインでも飲まないか?と誘われ、とあるバーへ。中は薄暗い。女人禁制、男ばっかり。
アルコールご法度の国でも、こんな店はあるんだね~。
おつまみなんてものはなく、テーブルにはグラスとワインのボトルだけ。
禁を犯しているという意識のためなのか、陽気なお酒ではなく、皆がぼそぼそ話をしながらただただ杯を重ねる。
空腹でたくさん飲んだせいで、酔っ払ってフラフラになってしまい、帰りはタクシーで帰ろうということになった。
しばらく走ると、乗ったタクシーが白バイに止められた。
運転手と警官が何かを話している。
警官が車の中を覗き込んで、私たちがいるのを見咎め、さらに何かを話し、ちょっともめてる感じ。
何が問題なのかよくわからない。
けれど、余計な口出しをして事態を悪化させてはまずいと思い、ずっと黙っていた。
どのように話をつけたのかやりとりの内容はまったくわからなかったけれど、なんとか事なきを得たようだった。
後からアブデスラムに聞いた話によると、オフィシャルガイド以外のモロッコ人とツーリストが同じ車に乗るのはいけないことらしい、特に外国人女性との同乗は。
それを知っていて乗せたタクシードライバーも咎めを受けるのだそう。
タクシー代はツーリストプライスで、それに迷惑料としてチップを少し上乗せして私たちが支払った。
最初からそれが目的だったのかとチラリと頭をよぎったけれど、アブデスラムもタクシー代を半分出すと言ったので違うのだろう、断ったけれど。
ワインをかなり飲んでるし、彼もひやりとしたと思う。
マラケシュの郊外にある美しいメナラ庭園
*****
追記(2017年) このときはアブデスラムにもうすっかり信用を置いていたので何とも思わなかったけれど、昨今のニュースを見知った今思うと、誘拐、拉致とまではいかなくとも、全員がグルで、睡眠薬入りワインを飲まされて身ぐるみはがされてお金もパスポートも盗まれるなんてことが起こらないとは限らない状況であった。
アブデスラムにしても、自分がワインを飲むという禁を犯しているだけでなく、ツーリストを連れまわしていたわけだし、下手をしたらハンドボールの代表選手としては困った立場になったかもしれない。
無事でなによりであった。今頃になって胸をなでおろしている。
喜捨とツーリストプライス ~’90
1990年6月22日~7月3日 〈Marrakech, Morocco〉
ツーリストプライスなるものが存在することを知った。
・サボテンの実
アブデスラムと歩いていて、サボテンの実を売る屋台が出ていたので、食べたことないと言うと、アブデスラムが買ってくれた。10個で3DH。
アブデスラムは怒って、いつもは1DHじゃないか、どうしてだ?と屋台店主に食ってかかると、おまえと一緒にいるのは日本人だろう?だからツーリストプライスだと答えたらしかった。
そうだったんだ。タクシーもレストランも何もかも、値段が違ってたんだ。気づかなかった。
・郵便局
増えてしまった荷物を日本へ送ろうと、郵便局へ行った。
梱包してあげようと数人がやって来て、奪うようにして梱包してくれたのはいいけれど、お金を要求される。
挙句「船便で」と言うと、日本へは船便では送れない、航空便だけだと言って法外な郵便代を提示された。
どうして船便がないの?と訊くと、見ればわかるじゃないか、マラケシュには海も港もないだろう、という返事。
頭にきて、じゃあ、送るの止める、と言って帰ってきた。半日を無駄にしてしまった。
アブデスラムにそのことを言うと、自分が一緒に行けば安く送れるかもしれない、と言ってくれたが、もういいよ。
こうなると、荷物がちゃんと届くのかどうかも疑わしいし。
郵便代にもツーリストプライスがあるのだろうか?
・お茶
旅の途中で知り合ったT松くん。彼はもう半年もマラケシュにいる。アラビア語も少しできて、カフェでお茶を飲みながら新聞を読むのが日課。
この日、私たちが同席したせいなのであろうか、お茶の値段がいつもと違ったらしい。これまでずっと1DHだったのに、この日は1.5DH。
T松くんはウェイターを呼んで、昨日と値段が違うなんておかしいじゃないか、と言うと、ウェイターも何かを言い返している。
小一時間ほど言い合いをして、ウェイターの方がとうとう折れた。やったね!
でも0.5DHの違い。日本円にしてみたらたったの10円なのだった。
確かに私たちは払える。相手もそれを知っている。
日本人にとっての10円とモロッコ人にとっての10円はまったく価値が違う。
持っている人が持っていない人に富をわけるという「喜捨」はイスラム教では当たり前の考え方だ。
だいたい私は、これまでツーリストプライスなんてものがあることも知らずに、レストランで普通に食事をして、それを安いと思って普通に払っていたのだから。
それは決してツーリストをだましているわけではないとは思うのだけれど。
だけど、なんとなく釈然としないのはなぜなんだろう?
スークの中のなめし皮職人のいる一角、タヌリ。ここで皮を染色している。
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